名称未設定-1海の文化フロア /   館内2F
海とともに発展してきた漁業のまち香住の「海の文化」を学べるフロア。
北前船の歴史や伝統的な漁具、香住の漁業の歴史をひもといています。

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北前船(きたまえぶね)とリアス式の香住海岸

北前船の模型や四つ目碇など、北前船関連資料を展示しています。
北前船とは、江戸時代初期、商人が大阪から下関を通過し東北や北海道へ結ぶ西回り航路を開拓した頃、幕府の年貢米(御城米)を運ぶ廻船の寄港地が、丹生柴山湊(現在の柴山湾)でした。
現在も避難港として使われている深い入り江の港の、柴山湾、また今子浦は、無人の小さな浜でしたが、西に浜が開けて船の出入りに便利でした。さらに、黒島や白石島などの島が荒波を防ぎ、風待ち港として人気でした。
この頃に就航した船は、逆風のときには櫂を漕ぐ多数の船乗りが必要であった北国船が中心だったため、今子浦の千畳敷や海岸遊歩道周辺の岩場には、船の係留用に柱を立てた穴や、綱をくくりつけるために岩に通り穴を開けた「めぐり」が今もいくつか残っています。

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香住漁港の発展の歴史

香住の漁業の歴史を、香住港を開いた長氏の功績を交え、実物資料とパネルで紹介しています。
現在の香住漁港は、カニ漁をはじめとする日本海有数の漁港です。しかし、明治時代の香住は遠浅の海に面した漁村だったため、小さな帆船や地引き網漁だけで漁を行っていました。
大正時代に入ると、柴山や津居山(現在の豊岡市)で発動機付漁船が急激に増え、漁獲高に大きな差が出てきました。その話を聞きつけ、香住で最初に発動機付漁船「海運丸」を 建造したのは、浜本治郎市でした。
苦労を乗り越えて安定した操業に成功し大漁が続くと、「発動機付漁船が停泊できる港を整備して欲しい」との村人の声を聴き、漁協の初代組合長で香住村村長・県会議員だった長熈は、何度も国や県に港の整備を訴えましたが、道半ばで病に倒れ、大正10(1921)年、亡くなりました。漁港改修の意志は次男の長耕作へと受け継がれました。耕作も亡き父と同じように漁協組合長と香住村村長(後に香住町町長)になり、香住漁港修築を村最大の問題として取り上げ、村と漁協が一体となって取り組んだ結果、国の補助事業として昭和4(1928)年、7月には漁協関係者や町民の念願だった起工式が行われました。(敬称略)

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香美町立 ジオパークと海の文化館
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